京都青年 2015年10月号


京都青年2015年10月号 記事一覧

公益事業を行う法人自体を支える寄付 ~公益活動寄付金・賛助会費~

シリーズ 京都YMCAの委員会
国際協力専門委員会

活動報告
子どものための 視覚障がい者サポート勉強会
ICCPJ台中ユースリーダー受け入れ
ネパール現地視察
サマーキャンプ

京都YMCA偉人伝 ジョン・ワナメーカーの人となり
京都YMCA偉人伝 ジョン・ワナメーカーの人となり


公益事業を行う法人自体を支える寄付 ~公益活動寄付金・賛助会費~

京都YMCA本部事務局

京都YMCAでは、様々な公益プログラムが毎年多くの皆さんから寄付や募金をいただいて行われています。その多くは、奉仕活動基金や国際協力募金、障がい児支援資金(チャリティーラン参加費や協賛金)、子ども支援資金といった目的と使途を定めた寄付や募金です。しかし、京都YMCAはこの他に賛助会費と公益活動寄付金という寄付金もいただいており、これらは公益活動を行う京都YMCA自体を支えるための寄付として位置づけられています。

賛助会員とは、京都YMCAの目的に賛同し財政的に支援する会員のことで賛助会費を毎年納めていただいている個人及び法人の会員を指します。
現在47法人17個人(2014年度末時点)が賛助会員として登録いただいており、中には京都を代表する有名な法人も含まれ外部からしっかりと京都YMCAを支えていただいています。 一方、公益活動寄付金は、賛助会費のように毎年定期的に納めていただくものと異なり、広く一般からその時々に寄付いただくもので、寄付金としてYMCA自体を支えることでは賛助会費と同じ趣旨です。ただ、公益活動寄付金は、国際協力募金や、奉仕活動基金などの様な明確にプログラムに使う目的で集められるものとは異なり、公益事業を行う法人自体を支える寄付という考え方が日本社会では浸透していないため理解されにくいのが現状です。

公益法人制度が発足し、全国で多くの公益社団や公益財団が誕生しました。これらの公益法人が将来にわたり持続してゆくためには、事業の継続と共に事業を行う主体としての法人の継続ということに対して地域社会の理解と支援が不可欠です。しかし、行われる事業が他の法人でもできることであればその法人の維持は必ずしも求められないかもしれません。したがって、京都YMCAが組織自体を支えることの必要性を広く認知してもらうためには、今まで以上に地域社会から必要とされ、無くてはならないものとして認識される努力を続けてゆかなければなりません。

賛助会員や公益活動寄付に協力いただく方々は、その趣旨を充分理解したうえで京都YMCAのファンとして京都YMCAという組織を支えようとする意図を明確に持った方々であると言えます。京都YMCAは、これからも地域のニーズに応え社会に貢献する公益事業やプログラムを通じてこのようなYMCAファンを増やしていく働きを強めていかなければなりません。

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シリーズ 京都YMCAの委員会

国際協力専門委員会

私たち国際協力専門委員会は、YMCAの使命に基づき、グローバルな視野を持ち、多文化共生社会の実現に向けてリーダーシップを発揮できる人材の育成ならびに地球上のいのちあるすべてのものが共に生きる平和な社会を築く運動を世界のYMCAネットワークを活かしながら進めていくという基本方針のもと3つのテーマを設けて活動しています。

まず1つ目は、国際リーダーシップの開発ということで国内外にユースを派遣し、グローバルな人材育成を考えています。皆さん良くご存知の毎年行われているグローバルコミュニティスタディツアーもその一つですし、国際ボランティア会による専門学校の留学生支援の活動もその一環です。

次に世界のネットワークを活かした国際協力事業の推進として国際協力募金への協力を会員や市民にお願いし、世界各地のYMCAを通じて恵まれない方々や難民の救援活動を行っています。毎年11月に国際協力街頭募金を行っています。2月の国際協力チャリティイベントでは、ネパールYMCAの児童養護施設や学校建設の支援を進めています。また大規模自然災害に対しての緊急支援募金なども行っています。

3つ目は、地域への人権・平和・国際理解の浸透を掲げて、国際理解講座を定期的に実施しています。

国際協力専門委員会は、担当スタッフを含めて15名のメンバーが非常に仲良く活動をしていますが、皆様方のご支援、ご協力を何卒よろしくお願いします。

執筆者:谷口  豊

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活動報告

子どものための 視覚障がい者サポート勉強会

 8月24日(月)、京都YMCA三条本館において松永信也先生を講師にお迎えして、「ちょこっとボランティア 子どものための視覚障がい者サポート勉強会」が12人の参加(内4人が小学生)で開催されました。

松永先生は普段小学校でもお話をされていることもあり、とても分かりやすくお話してくださいました。子どもたちは自己紹介を済ませたあと、最初は松永先生が質問されてもうなずくだけでしたが、目が見えないから声を出してもらわないと先生には何も分からないということを習うと、すぐに行動に移し、勉強会が終わるころにはちゃんと先生に分かるように返事ができるようになっていました。白い杖を持っている人が全員全然目が見えないわけではなく、弱視の人が圧倒的に多いということも教えていただきました。点字のことに関しても、目の見えない人はみんな点字が読めるわけではないということを学び、点字が書かれているトランプを見せていただきました。

それから手引きの実践に移り、身長も同じくらいのほうがいいということで、子ども同士ペアを組み、一人がアイマスクをし、もう一人が手引きをする練習をしました。最初は部屋の中を歩き、「階段でも手引きしてみますか?」と松永先生が問いかけられると、みんな「する」ということで、すごく積極的に取り組んでくれました。うまく階段の上り降りの手引きができると、みんなから拍手が起こりました。子どもたちの吸収力はすごいと驚かされました。

1時間半という勉強会でしたが、充実した時間を過ごせたのではないかと思います。松永先生がいつも「一人でも視覚障がい者の手引きに興味のある方がおられたらお話に行きます」と言われていますが、今日で4人の子どもボランティアが増えたわけです。

最後に松永先生から参加した子どもたちにはアイマスクと松永先生が作っておられる「ありがとうカード」をお土産にもらっていました。
子どもの参加者が少なかったのは残念ですが、これからもこの企画は継続して開催していければと思います。

報告 ボランティアビューロー専門委員会 佐藤 美穂

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ICCPJ台中ユースリーダー受け入れ

ICCPJ(International Camp Counselor Program in Japan/インターナショナル・キャンプ・カウンセラー・ジャパン)とは、毎年台湾からのユースリーダーを日本各地のYMCAで受け入れ、ボランティア活動や日本のボランティアリーダーとの交流を通して、お互いへの理解を深め、ユースの成長につなげるプログラムです。

今年、京都YMCAには、張又尹さん、邱郁テイさん、黃皓筠さん 3名のユースが派遣され、7月17日から8月15日までの1ヶ月間サバエ教育キャンプ場で活動しました。ご協力いただきました皆様に感謝申し上げます。
今回の参加者の1人 黃皓筠さんが日本語で書いてくれた感想をご紹介します。

***ユースの声 黃 皓筠さん(しばちゃんリーダー)***

日本を旅行したことは何回かありましたけど、日本でボランティアをやったのは初めてです。出発前には本当に緊張しました。あの時は台風があって、飛行機のことも心配しました。でも無事に日本に到着して本当によかったと思います。
最初の3日間はリーダートレーニング、いきなりすごく疲れるトレーニングをやって、ちょっとびっくりしました。でも日本のリーダーたちは本当に優しくて、私の不安な気持ちはどんどん落ち着きました。
琵琶湖でカヌーをやるのははじめてでした。最初は難しいと思いましたけど、この1ヶ月間の訓練で上手になりました。子どもたちと一緒にやるのもすごく楽しかったです。サバエでたくさんの仕事をやりました、KP(キッチンポリス)をやって現地スタッフもやって、いろいろなことを勉強しました。キャンプに入ってスタッフをやって、すごく楽しかったです。
今回は4つのキャンプに入りました。「小学生英語キャンプ」、「ひまわりキャンプ」、「アクティブキャンプ」、「ファミリーわくわくキャンプ」です。一番忘れられないのはファミリーキャンプです。家族のお母さんとお父さんと子どもたちと一緒に台湾のお菓子を作るのは本当に楽しかったです。いっぱい話もしました。
この1ヶ月間は本当に楽しかったです。疲れたときもたくさんありましたけど、日本のリーダーたちと一緒に仕事をやって、ご飯を食べて、話をして、本当に素晴らしい思い出になりました。京都YMCAのみなさん、本当に、本当にお世話になりました。

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ネパール現地視察

今年2月、ネパールYMCA総主事ムクティ・アチャーリヤ氏が京都YMCA125周年記念式典に参列されました。その約2か月後の4月25日、マグニチュード7.8の巨大地震がネパールを襲いました。現在ネパールYMCAは震災復興のために精力的に活動を行っています。そしてこの夏、ネパールYMCAの震災復興支援活動視察のため、京都YMCAの神﨑総主事と關国際担当の2名がネパールを訪問しました。

首都カトマンズでは倒壊した建物の瓦礫の山や、崩れた屋根をビニールシートで覆う姿など地震の傷跡が多く見られました。世界遺産であるバクタプルの寺院はその大半が崩壊し、その周辺では家を失った人々がテント生活をする姿も見受けられました。
ネパールYMCAは、生徒数62人の幼稚園と、10人の子どもが暮らす児童養護施設を運営する小さなYMCAです。生徒の大半が貧困地区出身の子どもたちであり、経済的に困難な地域の人々を支える学校づくりを目指しています。

地震の際は幸運にもけが人はなく、屋上のタンクが破損するに止まりました。現在は、被災した子どもたちのための奨学金支援制度の設置や、地震で甚大な被害を受けた山奥の村の建物修繕、インフラ整備など震災復興支援活動にも力を注いでいます。
皆様からご協力いただいた「ネパール大地震緊急支援募金」は日本YMCA同盟を通して、上記ネパールYMCAの震災復興支援活動のために使わせていただきます。
ご協力誠にありがとうございました。

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サマーキャンプ

DSCF9392京都YMCAでは毎年子どもたちの発達や関心に合わせて、様々なサマーキャンププログラムを実施しています。この夏も多くの子どもたちが参加し、野外活動を通して素敵な思い出を作り、大きな成長を見せてくれました。
そして、子どもたちと共にキャンプに参加した野外活動ボランティアリーダーたちも活動の中で貴重な経験を得ることができました。

***ユースの声 深瀬 朝美さん(くりこリーダー)***

私が京都YMCAに所属して初めて参加したキャンプは、「うみほし大自然満喫キャンプ」です。これは、京都府の京丹後市にある海と星の見える丘公園で行われた、小学3年生~6年生を対象とした2泊3日のキャンプで、私の役割は女の子6人のグループカウンセラーでした。参加したメンバーが「初めてこんなに木がたくさんあるところにきた!」「貝がらを見つけられた!」と嬉しそうな表情で報告してくれたのを聞き、私が日頃何気なく通り過ぎているものが、子どもたちにとって特別であったり、大発見だったりするのだということに気づかされ、子どもの目線にたって周りを見られて、子どもと感動をともにできるリーダーになりたい、と感じました。みんなと手を繋ぎ歩いたナイトハイクの帰り道、ふと夜空を見上げると満点の星空が広がっていてとても綺麗だったこと、様々な場面で感じたメンバーの心配りや優しさ、そして、こっそり私のリュックに忍び込ませてあった手紙には「もっといいリーダーになってください。ドジふんだらわらわれるで。」という厳しくも温かい応援の言葉、メンバーの弾ける笑い声、きっと一生忘れないと思います。たくさんのことを教えてくれた子どもたちへの感謝を胸に、リーダーとして日々成長できるようこれからも頑張ります。

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京都YMCA偉人伝 ジョン・ワナメーカーの人となり

若き日のワナメーカー

若き日のワナメーカー

ジョン・ワナメーカーと言えば、京都YMCA旧会館を建設するにあたって巨額の寄付を施した米国の実業家です。アメリカ合衆国最大の百貨店王と呼ばれるまでになった実業家の彼は、遠く日本の京都に夢を託しました。
1980年に今の本館に改築され、旧本館の姿は模型となって1階のロビーに残されているだけで、そこに寄付をした彼の名前を知る人も少なくなりました。彼の名を知る人も、単なる「心の広いお金持ち」としかとらえていないかもしれません。しかし、彼は京都YMCAに信仰と情熱そして希望を持って寄付を施しました。創立126年を迎えた私たちは、今改めてこの人物のことを学ぶべきではないでしょうか。京都青年では読書の秋の10月から12月号までの3回にわたって彼の生涯を紹介したいと思います。彼の意志に学ぶことはより私たちの活動の意味を広げることとなるでしょう。

 【第1章】 史上最大の百貨店王

ジョン・ワナメーカーは「史上最大の百貨店王」と呼ばれ、ロックフェラー、ヒルトンと並ぶアメリカでもっとも成功したビジネスマンの1人です。アメリカ・フィラデルフィアを中心にひとつひとつ店舗を広げ、ニューヨークやその他の都市に、当時としては最も近代的な建築の百貨店を建て経営しました。しかし彼は決して金儲けを優先したわけでなく、強い信仰を持って社会に奉仕をすること、市民に利益を与え、社会の構造をよくすることを目指したのです。その結果がこのような繁栄という結果を招いたのです。そしてそこから得る利益を、彼は惜しげもなく社会に還元してゆきます。それは日曜学校運営であり教会建設であり、また遠く離れた地に花開いたキリスト教の信仰を持つ青年たちのYMCA運動を支援するためにです。

1838年、ワナメーカーはアメリカ・フィラデルフィア市の郊外にレンガ焼き職人の長男として生まれました。敬虔なクリスチャンの両親によって信仰深く育てられた彼は、幼い時からまじめで勤勉、利発な少年だったようです。家は兄弟が多く貧しかったために、彼は13歳から家を出て働かなければなりませんでした。洋服店の店員となった彼は昼間懸命に働き、夜に店が閉まるとその足で教会に行って聖書を学び、祈りをささげたという事です。また仕事の無い日曜日には教会の日曜学校への奉仕も欠かしませんでした。

この若き日からの職業体験の中で、彼は自らの店を持ち事業を起こす実業家を強く目指すことになります。そのころ商業において、商人たちは「客に商品を高く売りつければ成功」と考えていました。そのためには、客側は品物の値打ちを見極めて、いかに安く買い入れるか必死にならなければならなかったのです。
彼はまた商人の客に対する態度にも疑問を持ちました。あるとき母ヘのプレゼントの為に毛糸を買いに行った時のことです。母の服に合わせようと家から持ってきた母の服の端切れをポケットに入れたはずなのに、どこを探してもありません。記憶を頼りに毛糸を選んで代金を払い、店を出ようとしたその時に上着のポケットから端切れが出て来ました。思っていたより少し濃い色だったので、取り替えて欲しいとて店員にお願いしたところ、その店員は血相を変えて怒鳴ったのです。「これはお前が気にいて買ったものだ。私は何も押し売りをして売ったわけではない。どうしてもこの色が欲しかったら、もう一度この色を買うんだな!」その店員は叩き出すように彼を店から追い出したのです。その頃は店に入ったら何も買わずに出てゆくことも許されない、そんな商売の仕方が当たり前でした。
ワナメーカーはこんな商売の仕方を自分の店では絶対にさせないと誓ったのです。

これらの体験からワナメーカーは「商業は社会に奉仕することである」という価値観を持つようになりました。
つまり商人は消費者の欲する品物をできるだけ低利潤で真心を込めて取り次ぐことです。また商人としての誠実さの必要性を感じ、「精神が背後になければ、金という物は金属に過ぎない」と考えるようになったのです。これは「人はパンのみによって生きるのではない」と聖書によって学んでいたからです。彼は新しい自分の店において、商品の品質を保証して、購入した消費者がそれを気に入らなければ交換をする、というその時代では考えられない策をとりました。また「価格の低廉」をめざしこれらの事を表すためにもこの時代にはなかった「定価制度」という方策を強く進めてゆきました。このことは商品の値打ちを明らかにし、利潤を抑えてできるだけ安価に販売しようとしている商人の誠実さを表すものでした。

また、この方法は小売業者間の競争を生み出す、とも彼は考えていました。それによって小売業者間の競争が生まれ、フィラデルフィアという地が全米から注目されて多くの人や産業が集まってくる結果を生み出すという事もワナメーカーは考えていたのです。
彼の人となりは消費者や卸売業者に多くの信頼を得るようになります。また、彼は自らの商売を「広告」を使って広く世に知らしめる宣伝方策に力を入れました。これらの方策のおかげでワナメーカーの商法は大成功をおさめ、危機的な世界大恐慌も逃れることができ、ニューヨーク支店、フィラデルフィア本店を高層建築の大百貨店となし、ワシントンには中央停車場を地下で直結させた地上12階建ての百貨店を建てるに至りました。それによってワナメーカーは米国最大の百貨店経営者、小売業者としての地位を築いたのでした。

つづく…
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